【刘本新日军杭州湾金山卫登陆研究】
【按】本多胜一是日本《朝日新闻》的著名记者,他曾在《朝日新闻》连续发表了当年日军在中国犯下了罪行,引起了日本国内的轰动。日本最早揭露日军侵华罪行的友好人士:本多胜一。1983年、1984年和1987年,本多胜一三次来到南京采访幸存者,回去后根据确凿的事实先后写成《通向南京之路》、《南京大屠杀》等畅销书,把当年日军在南京犯下的罪行展现了出来。他还新出版了《南京大屠杀与日本的现在》一书,希望以此让日本人了解历史真相。
《南京への道——でま略攻京南》
虐殺は杭州湾上陸直後からおこなわれていたが,検阅によって日本国民にはまったく知らされなかった。(略)日本军将兵による一般市民への暴行.虐殺.强姦.放火などの様子が報道や作品にあらわれることなど,ありらべからざることであった。いわば“報道の原則”としていいかえるなら,对立する二者のうち中国側の视点が完全に欠落していたことになる。このたび私がたどった杭州湾から南京への道は,その欠落していた半分を四六年ぶりに補うための取材旅行でもった。
“日軍百万 杭州北岸に上陸”
1937年(昭和12)11月5日未明,日本陆军の第六師団、第18師団、第114師団からなる10军は,中国杭州湾の一角,金山卫周边に敌前上陆した。日本海军第4舰队の护卫のもと,约100只の船団による隐密作战であった。当时の首都.南京陷落を三十数日後にひかえた大规模な攻略戦のはじまりである。
それまで中国国民党军(蒋介石军)の强力な抵抗で苦戦していた上海派遣军五个师团も,败走する国民党军を追って南京への進擊に移った。上海派遣军にはのちに京都の第16師団もくわわっている。第10军と上海派遣军の二军を指挥するために中支那方面军司令部が新设され,松井石根大将が司令官任ぜらわた。杭州湾上陆の报道は,当时一ヵごとの缩刷版を刊行していた唯一の新闻《朝日新闻》によればつぎのとおりであらる。
【六日正午陆军省公表】わが陆军の一部は海军の密接且つ適切なる協力の下に11月5日未明杭州湾北岸に困难なる敌前上陆を敢行し大成功を取めたり。
【六日正午海军省公表】支那方面舰队司令官指挥下兵力の一部は第×舰队司令长官指挥の下に极めて隐密里に陆军输送船団を护卫し昨日11月5日黎明前杭州湾に入り暗夜に加ふるに折柄襲来せる浓雾を冒し然も潮流强き海面に于て杭州湾北岸に对する陆军部队の上陆を全力を举げて掩护し见事をる成果を以て所期の目的を达成せり。
【上海特电六日发】军报道部6日正午发表:昨5日未明相当大なる陆军部队は海军と密接且适切なる协力のもとに杭州湾北岸一带の地区に敌前上陆を决行,奇袭上陆に大成功を収め附近の敌を击破し战果を扩张中なり(1937年11月7日夕刊:6日发行)。
この年七月七日,卢沟桥事件(中国侧でいう七、七事变)にょって实质的にはじまっていた日中战争は,第二次上海事变をへたのち,この南京攻略战でおおきな転机にさしかかっていた。日本军はこの胜利によってむしろ引きかえす道をうりない,泥沼の战いへおちこんでゆく。より长期的に见れば,日清战争から太平洋战争,战败にいたる半个世纪の足迹をつうじも,南京攻略战おおきな転机であっただろう。杭州湾上陆のあと,上海市街その他の空に“日军百万杭州北岸に上陆”と宣传する气球があがったことはよく知られている。むろん100万人もいなのだが,上海周边で抵抗する国民党军の战意をくじくための日本军の一策であった。《読売新闻》の同年11月8日夕刊(7日发行)から上海发の特派员记事を引用しよう。
六日正午突如として苏州河北岸中空高く大きなァドバル一ンがポカリと浮び同时にわが军の全线に亘つてドツと喊声が上つた,见よ!江南の低き雨云に悠悠と浮游するァドバル一ンの文字を“日軍百万杭州北岸に上陆”とハツキリ読まれるではないか。
あれから满46年后にあたる1983年(昭和58)の11月,その杭州湾岸の日军上陸地点をたずねた。当時からの生存者たちに体験をきくためである。46年といえば,10岁の少年少女であも56岁になっている。30岁の壮年なら76岁,生きている证人も次第に消えてゆく年代であろう。そして杭州湾上海から南京まで,当时の中支那方面军诸部队が進擊した主な戦跡にしたがって取材した。
この仕事は,本当は10年ほど前に,中国についての私の最初のルポルタ一ジュ《中国の旅》を発表してまもないころ思いついたものである。しかしその後の国际事情が逺因して,これまで具体化できなかった。今回よう実现したのは,ひとつにはこの前年(1982年)の教科書问题(日本の文部省による教科书検定で,中国への侵略を“進入”と改めさせるなどの行爲をしてきたことに对し,中国、韩国をはじめアヅア诸国が猛反発した国际事件)の影響もぁってのことかもしれない。
だが,これは中国のためではなく,日本のための仕事である。ドイシが(西も東も)ナチ当时の戦争犯罪に今なおこだわり,その残虐行爲に時效をみとめず追及、反省しているのにたいして,A級戦犯を戦后も総理にして恥じぬ神圣の日本に,小さいとはいえこのていどの仕事があってもよいだろぅく。よく“日本人は国际感觉が乏しい”といわれるが,それは言葉の问题などでは断じてなく,こうした“反省なき民族”の態度こそが核心なのだ。10年前も今も動機にかわりはない。ただ季節的には,この作戦の行われたと同じ11月にら12月にかけての期间を選びたかったので,その点だけ固執した。
南京攻略戦は,规模のおおきさからも歴史的意味からも重大な局面だったから,新闻记者や小说家もかなり從軍した。かれらの记录、报告、报道のほか,将兵自身による手记も相当数のこされている。军の検阅や自己规制によって界限はあるものの,たとえば石川逹三や火野苇平などの作品には今なお评价すべきものがある。火野苇平は杭州湾上陆作战に一下士官の身で参加し,その体验を《土と兵队》として発表した。そのなかに,あるト—チカヵを占领したときのつきのような描写がある(新潮文库版から)。
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(ト—チカの中から)次次支に那兵が出て来に。どれも日本人によく似ていた。彼等は手榴弹のためにやれたらしく,气息奄奄としているや,真黑に颜が焦げたのや,颚が飛んで無くなっているのや,左颊の千断れたのやが,次次に现われた。彼等けべこお辞儀をし,手を合せて,助けて贯いたいというよな哀愿の表情をした。(中略)もう居ないだろうと思っていると,私ほ暗闇の中で,大声で呻いている声を闻いた。瞳を凝らしてみると,中央の土间に何か黑い者が蠢き転げ廻っているのを见た。私け铳剑を構えて,それに近づいた。(中略)然し,それは呻を声ではをかった。
それは泣いてたのだ。私はそこに転って身も世もあらぬほとの声を立てている兵队に手を掛けた。来来。するとその二人の兵队はやっと立ち上った。私は暗闇からにゅっと铳眼の光の中に出に兵队の颜が,あまりにも若く美しかっので,どきりとた。二人とも同じ位若く,殆と少年であったのだ。しかも二人とも女かと见まごうばかり美しかった。二人は颜中を泣き腫らし,私の肩に两方からより縋った(吊,坠,拽拉)。彼等は何か云い始めたが,无论,私には判らをかった。一人の兵队は,ポケシトから手帐を出し,页を繰って私に一叶の写真を示した。それは母の写真かと思われた。彼等の云う无论私には充分に相像された。二人は兄弟かも知れぬと私は思った。私はふいと,この二人だけはここに残して行こうかと考えた。
然し私は两肩にぶら下るように縋の二人の兵队を连れて表へ出た。兵队はしきりに首肯いた。少年兵の悲しみにつぶれた颜に,かすかを喜びに似た影がかすめたよう思った。(中略)大队本部のある先刻の部落まで帰って来ると,ずらりと捕虏が並んでいだ。吉田一等兵が来て,班长,饭は出来とりますよ,と云った。私は家の中に入った。私は里クリ丨クに出て颜と手を洗った,耳を少し怪我したようだ。振しりで食う米の饭は何ともいえずおいしかった。
ところが,この作品は発表当时このあとつづく十数行が検阅で削除されていた。むろん现在刊行されているものはそこも复活している。それは以下のような,捕虏を全员虐杀する场面であった。
横になった途端に,眠くなった。少し寝た。寒さで眼がなめて,表 に出た。すると,先刻まで電線で珠数つなぎにされていた捕虏の姿が见えない。とうしのかと,そこに居た兵队に讯ねると,皆杀しましたと云っに。
见ると,散兵壕のなかに,支那兵の屍骸が投げこまれてある。壕は狭いので重なり合い,泥水のなかに半分は浸っていた。36人,皆杀したのだろうか。私は黯然とした思いで,又も,胸の中に,怒りの感情の涡卷くのを觉えた。呕吐を感じ,气が滅入って来て,そこを立ち去ろうとすると,ふと,妙なものに气づいた。屍骸が動いているのだっは。そこへ行って见ると,重なりあった屍の下积みになって,半死の支那兵が血涂れになって,蠢いていた。彼は靴音に气附いたか,不自由な姿势で,浑身の勇を挥うように,颜をあげて私を见た。その苦しげな表情に私はぞっとした。
彼は懇願するような眼附きで,私と自分の胸とを交互に示した。射ってくれと云っているこに微尘の疑いもない。私は踌躇しなかった。急いで濒死の支那兵の胸に照凖を附けると,引铁を引いた。支那兵は動かなくなった。山崎小队长が走って来て,どうして,敌中で无意味な発炮をするきと云った。どうしてこんな无残なことをするのかと云いたかったが,それは云えなかった。重い气持で,私はそこを離れた。
《中国の旅》以来12年ぼりに取材に来た中国は,もず政治伝やスロ丨ガンが街からほとんど消えてしまっている点でおどろかされた。文化大革命の末期,林彪事件直前の当时からみると,まるでタィム:カヵプセルから别の时代に出されたかのようだ。农村の风景でいちじるしい变化は,农民の家が立派になったことである。农村の改築、增築热は数年前からはじまったそうだが,それは もついていて,レンガを運ぶ荷車や牛車がいたるところに见られる。大规模な人民公社による农业生产方式は事実上すでに解体し,来年(1984)の4月からは行政单位の称呼も以前の“鄉”などにもどるはずだ。
杭州湾岸の町、金山衞は,明の時代に建造された城壁の一部がまだ残されている。三華里(约1.5キロ)四方ノ正方形で,高さ二丈二尺(约6.6メ丨トル),レンガの外壁と土による洪武19(1386)年の建造である。しかもそれは日本か海贼、倭寇の掠奪をふせぐかめのものでったという。公社副主任によれば,金山卫の県官、方鸣谦が,倭寇に悩む住民の求めによって,住民を指挥して建造した。よころが,当时は正方形の城壁は皇帝の居所だけに许されていたため,明の皇帝の怒りをかって方鸣谦は死刑になった。民衆は方鸣谦の德をたたえて记念に大きな廟をたてた。この廟はしかし,太平天国の乱のよき他の家よよもに焼失し,のちに再建されたものの,日本军上陸に际してまた一部が焼かれ,さらに戦後になって文革のよき“迷信だよして全部烧かれてしまったよいう。
海岸の堤防ぞいの道を車で数分走ったょこは三差路に,日本軍侵攻を记念する石碑がたてられていた。“阶级教育碑”と题するその碑文には,1937年の農暦(隂暦)10月3日未明に日本軍国主義者がここか侵入して三光(焼きつくし,奪いつくし,殺しつくす)を実行したこと,その具体的数字のほか“日本人民も(この戦争で)災害を受けた”と書かれ,终わりに“二度と侵略を许さぬよう,固く记憶しておかねばならない”と结ばれている。
写真说明:日本軍上陸地点に建つ记念碑(杭州湾-金山卫郊外の海岸で)。
石碑のそばをてきどトラツクや耕运机がとおるが,概してしずかな田园风景である。高い杂草のあいだから海辺に出ると,はるか沖に大金山岛の见えに。元の時代まではこの岛と本土が半岛してつながっていたらしく,海は浅瀬である。日本軍上陸当时は泥や砂の浜だったこの一带も,今はコンクリ一の堤防になっている,再び《土と兵队》を引用すれば,日本軍は次のようにしてここに上陸した。
突然,何かにぶつかったように私逹の舟艇は止ってしまった。底を当てたのだ。见ると,私逹の廻りにことごとく浅瀬に乘り上げた多く舟艇が居る。海のまん中だ。跳び込めと小队长が命令した。私逹は水の上に跳び下りに。膝までずぶりと浸り,足がぬらぬらしたものにはまりんだ。膝頭に刺さるように水の冷たさが渗みた。艫の方から跳び下りたのは腰まで海水った浸った。
谁か水の中にびっくり返った。どの舟艇からも兵队が水の上に降り立った。见渡しても水面ばかりで何も见えない。陆地らしいものはない。气がつくと,深い霧である。五十米程步くとだんだん浅くなって来て水は无くなったが,下はどろどろの泥砂である。我我は軍靴の代りに地下足袋をみんな履いて来だが,一足每にぬこんでなかなか拔けない。步きにくいこと夥しい。(中略)既に明け离れた朝の中に,まだ霧はすっかり霁れてはかなかったが,横に列なる一连の堤防と,树木と,铁塔とが,突然のごとく我我の眼前にあった。急にひゅうん と耳の傍を音を立てて飛び去ったものがある。
私は泥の上に身を せた。(中略)我我は铳に剣をつけた。堤防もで700米程と思える。猛烈な前进が始まった。私の分队は第一线の最左翼だ。私は兵队に,出来るだけ広く间隔を取れ,と呶鸣った。弹丸はしきりに来るはれども敌兵の姿は全く见えない。(中略)やっと堤防に辿りついた。我我は堤防の敌兵と白兵戦をやるつもりであったが,堤防には敌は居なかった。
この附近は塩田だ。畠もある。乘り越えて来て堤防には全部散兵壕が掘ってあり,间をお机关铳座が作ってある。坚固な阵地だが敌は我我の攻击と共にこの阵地を棄てて退却したと见える。二轩ある藁家から一匹の山羊と鸡が二三羽出て来た。鸡は悠然と饵をあさっている。早速高桥一等兵が追っかけて行って,一羽捕えて来た。すぐに首をしめてすやい手附で毛を ってしまった。今夜のおかずが出来たぞ,と笑った。
防衞庁研修所戦史室が著した戦史叢书第八十六卷《支那事变陸军作戦(1)》(1975年.朝雲新闻社)によれば,杭州湾上陸地点はつぎの三ヵ所である。
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5日払暁。軍は,第6師団(国崎支隊配属)をもって金山衞城西側地区に,第18師団主力をもって金山衞城東側地区に,左側支隊(第18師団の步兵第35旅団長手塚省三少将の指揮する步兵第35旅団<步兵第114連隊欠>,野炮兵第12連隊第3大隊基幹)をもって第6師団の左側地区か奇襲上陸し,敵の抵抗を排除しつつ,困難な地形を克服して北進し,一挙に黄浦江の缐に進出した。すなわち,第6師団は,国崎支隊をもって上陸後金山衞城を占領させ,師団主力をもって北進し,8日,松江南西黄浦江左岸地区に,第18師団主力は6日,亭林镇付近に,また左側支隊は8日,楓泾镇東方にそれ進出した。
このときの情況について,金山衞公社できいた公社副主任,何福明氏による中国側からの说明をつ介紹ぎにする。
1937年の農暦(隂暦)十月三日朝,杭州湾の金山衞沖に侵入してきた日本帝国主義の侵略軍は,艦砲射擊とともに砂原の沿岸に上陸してくると,金山嘴镇.戚家墩.白沙湾 三方向から金山衞へなだれこんできました。
1937年の農暦(隂暦)十月三日朝,杭州湾の金山衞沖に侵入してきた日本帝国主義の侵略軍は,艦砲射擊とともに砂原の沿岸に上陸してくると,金山嘴镇.戚家墩.白沙湾の三方向から金山衞へなだれこんできました。古い土の城壁内には国民党軍がおり,一般民衆は城壁の内外に住んでいましたが,砲声や銃声をきいて民衆の多くは逃げました。しかし逃げおくれた人たちにたぃして,日本軍は虐殺と強姦で応じ,とくに城門付近にいた人たちは,铳剑で刺殺されたり,しばられて家の中にとじこめられたまま焼き殺されたりしました。以後三日間で家の八~九割が焼かれ,その焼失した部屋数(注)は3059室,虐殺きれた住民は1015人になります。
犠牲者たちの生き残りの一人に,家族を皆殺しにされて孤児になった陳褔興さん(55)がいる。当時九歳(注)だつた陳さんが語った体験は次のとおりであった。
当時の陳褔興さんの家は,金山衞城の城門から30メ—トルほど外にあ(右图)。城壁をかこむ護城河(堀)の橋をへだてて对岸の,橋から城外へ通ずる道路に面し,棟つづきの二棟18室には陳一家を含む一族約20人が住んでいた。陳一家の棟は父(29)と妹(3っ)を含めて9人,生業は農家だが,塩田の仕事もときどきやっていた。陳少年の母は一年ほど前に病死していた。
日本軍上陸の二日前にあたる11月3日,陳少年は三キロほど郊外にある実家へ行った。伯父(母の兄)の葬式に出るたった。実家に滞在中に日本軍の金山衞侵入となったため,陳少年はそのまま実家に残った。
黑煙をあげて燃えつづける金山衞の空を見なから,母の一番下の弟(叔父)が“家へ樣子を見に帰るほうがいかもしれん” 陳少年に言った。上陸時の騒ぎが一段落したと思われる一週間後の11月12日ころ,少年は一人で自宅に向かった。どんより曇った日であった。
近づくにつれて,道ばたや川の中などいたるところ死体が散らばり,ブタやウシの死骸も日についた。鲜血が道路を流れてかたまった跡もあり,海岸の沖には日本軍の艦船がぎっしり並んでいた。
插图:護城河(掘)の外側から金山衞の就成正門(中央の木の背後付近)を見る。城壁の一部は正面の家の裏に残る。
自宅に着いたのは午後2時ごろだった。家屋はほとんど丸焼けに近く,一方の壁だけを残して“焼けあと”と化してた。米櫃も焼かれたので,焦げた米が散乱している。しかし家族の姿は見えない。心配で息づまりそうながら,あたりを小走りに捜しまわった。少し離れた護城河の岸に,水牛を水浴させる池がある。その中に死体が折り颜と足が出ている男がある。その颜が,父親であった。陳少年はひとり声をあげて泣き,土をどけてひっばっみた。重い死体は何の反応もない。子供の力ではなすすべもないまな,途方にくれて号泣した。泣きながらに周辺をさがすと,川岸の倒れ“沙蓬木”の下に,父の末弟(叔父)が死んでいた。铳剑に刺された跡が四 所にあった。陳少年は二時間ほど泣いに,ほかの家族も知人も現れなかった。
そんなことをしているうちに,城門付近にいた日本兵にみつかり,つかまってしまった。城門のそばには,国民党軍が作ったという“水牢”がいる。幅一メ—トル半,長さ三メ—トル半の深い穴に水があり,ただの牢獄よりも拷問の役割が強いので,長くは生きられない。日本兵は陳少年をこの中へ放りこんだ。ほかに男たぢが七人いた。まだ さい陳少年には,立っ姿勢でも水面があごまでくる。まわりの男たちの間にはさまれたまま七時間ど水につかっていると,気が逺くなって意識がもうろうとしてきた。
深夜,おそらく午前一時ころ,日本兵二人が水牢を見に来た。ほとんど気绝していた陳少年を,かれらはもう死んだと思ったのか,ひっばりすと八〇メ—トルほど離れた空き地に捨てて引き揚げた。
まもなく意識がはっきりし,体力もやや回復したので,少年はくずれた城壁から へ出ると,母の実家へ向かって逃げた。その途中,隣家のおばあさんに偶然会った。逺い親類でもある。おばあさんは陳さん一家が殺されたときの樣子を知っていた。日本軍は西の方から城内に侵入し,南側(海岸側)の城門に機関铳をすえると,城壁から外に向かって乱射したという。護城河の対岸にいた陳さん一家のはとんどはこのとき殺され,ウシもブタも射殺された。しかし叔父の一人(父の末弟)と三嵗になる妹とはまだ生きていた。铳剑をかざしてまもなく現れた日本兵に,叔父はもちろん,幼児の妹も腹を突き刺された。叔父は四ヵ所刺されたが,妹は一突きで殺された。……
こうして殺された陳さんの一家八人と,同じ棟の親族人七人,あわせて十五人の家族関係は上图のとおりである。日本軍の主力部隊が去って守備队だけとなってから十数日後,池に折り重っていた死体はそれぞれの親族がひきとった。陳少年は母の実家11嵗までいて農業を手伝(行走、飘移不停的样子)ったが,その後は作男になって牛番などをし,13嵗のときある農家の養子にった。日本败戦まで日本軍と汪精衞(注)の支配下にあって,その後も陳少年はしばしば人夫に徵発され,強制労働に從事さられた。
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こんどの取材旅行で予想以上に多かったのは,日本兵にとる強姦の体験者たちであった。しかし,これは中国の婦人に限らぬことであろうが,いかに昔のことはいえ,強姦された当人がそのときの屈辱の状況を詳細に語ることは稀である。相手が男性であり,しかも当の日本兵たちの国から来た記者とあれば,それはなおさらのことだ。したがって多くは公社幹部など第三者を通じて语るだった。
ここに介紹す72嵗の婦人の場合は,46年前に受け日本兵の暴行の体験をみずから語ったが ,核心の強姦そのものの部分,私にではなくて公社副主任に語り,あとで彼が私に伝えた。実名を出さないようにと依頼されたわけないが,ここでは仮名としておきたい。
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日本軍が上陸してきとき,劉美龄なん(仮名)は26嵗であった。やはり26嵗だった農民の夫とのあいだに,6嵗の長男以下三人の子があり,金山衞城外の家には老いた母親も同居してた。
三人の日本兵か現れたのは,上陸二日後にあたる11月7日の午後である。六人は炊事場の竃のかげにかくれた。壁との間に隙間があり,ぶつうは薪などを置いてある。三人はしかしすぐに一家をみつけた。夫はただちに外へ連行され,射殺された。一番下の八ヵ月の子を抱く劉美龄さんを,日本兵は铳床でなぐり倒した。劉さんは耳から出血して気绝した。
このときのけ,以後三年間にわたって劉さんはベシドから起きることができず,横になったままだった。母親は乞食をして食物を運んだ。
日本敗戦の直前,14~15嵗になっていた長男が,あるとき日本兵に徵発されて材木運びをさせられた。近くの大廟(前述の方明谦の廟)の一部こわして薪にするための作業だったという。作業中,長男は材木の下敷さになって死んだ。
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劉美龄さんが直接私に語ったのは上。しがし他の体験者の話を私がきいてる間に,彼女は部屋の片すみで公社副主任に何かを語りながら,流れる涙をぬぐっていた。彼女の帰ったあと,副主任は次のように語った。
“これは劉美龄さんがあとで伝えてください言ったことですが,あのとき铳床でなぐられたあと,劉さんは三人の日本兵にかわるがる強姦されたのです。しかもそれから当分のあいだ自宅で監禁状態にされて,日本兵が每日のとうに三~四人ずつ来ては強姦したので,何十人とも知れない違った兵隊たちに連日の屈辱を受けつづけたのでした”。
上陸後,北進する日本軍主力部隊が通過した農村では,住民の多くが逃げていたものの,突発的な事態に加えて,進擊の方向を住民に知るよしもないめ,逃げくれた人がかなりいた。海岸の上陸点から北に山陽公社(注)の場合,殺された住民は合計351人,焼き払われた家は114戸(429室:うち全焼829戸),焼き殺されたり略奪されたブタ1470頭,同ウシ849頭。そして強姦された婦人約120人,うち何人かは強姦のあと殺されたので,前記351人の殺された数に含まれている。
こうした数字は山陽公社が全住民について調查した結果である。日本の場合を考えてみても理解できようが,上海や南京よいった大都市では戦乱の中での犠牲者数を確定することは困难——というできようが不可能に近い。しかし農村や小さな町だと,住民はおたがいに知りつくしており,だれが殺されたかはずっと後になっても正確にわかる。中国ではいま各地で鄉土史の編集がぇぇめられており,日本軍による犠牲者の数字や情況もたんに拾われている。この作業の動機の一つとなったのも,一昨年(1982)の教科書问題だったらしい。
数字をもう少し介紹しよう。殺された351人のうち,60嵗以上の老人137人,10嵗以下の子供21人,11嵗から59嵗の青壮年193人。人夫として徵発された2048人のうち,行方不明で帰ら住民72人,監獄に収容された者39人,焼かれた畜力水車小屋975軒。収穫期で田んぼにあったまま焼かれた稲の面積5925畝(一畝は6.67ア—ル),脱殻すべく集積されたあと焼か57400斤(約35トン)。推計不能の大量の綿花と,2335堆(積んだ小山)の薪も焼かれた。なおこの公社の当時の人口は約15000である。
こうした中で,今のこの公社(鄉)のうち海岸ぞいの八つの村のひとつ,汀南村は,166戸の全部が焼さはらわれた。同じく倪家村は140戸のうち113戸が焼かれ,49人か殺された。うち12戸は全家族皆殺しであった。
いくつか具体例をあげる。
楊家村の裴引宝(女)は,息子の戚族根を铳剑で刺殺され,三嵗の孫も頭を中央で切り裂かれた後,自身も乳房を切り落とされてから刺殺された。息子の妻だけが実家にいたため難をのがれ,一家四人中三人が殺された。
建国村の李泉宝(女)は,生後七ヵ月の乳児を抱いて戸外へ出たところを射殺され,水田の中に倒れた。乳児(女)はそのまま母親の乳房をふくんで生きていた。姉の家で育てられて健在。
向陽村の農民.戚家余(男)は。隣家から逃げてきた六人ともに自宅にかくれた。しかみつけた日本兵は全員を铳剑で刺した。五人は即死したが,二人は重傷で生きのびた。
やはり向陽村の朱家和.沈友根.盛阿美の三人(いずれも男)は,田んぼにかくれていて見つけられ,胡阿四の家に連行された。日本兵は三人を全裸にして四肢(両手両足)を切断し,機織りにぶらさげてから家に放火,全焼させた。
梅園村の農民.劉同生は老夫婦二人だけでいたが,朝食直後に日本兵が現れ,劉を铳殺してから放火した。妻はかくれて見つからなかったものの,夫も家も失って発狂状態になり,川にとびこみ自殺した。
用户评论
淡写薰衣草的香
哎呀,这500 Internal Server Error真是让人头疼啊!我刚想看看这篇nginx的文章,结果就遇到了这个错误,太扫兴了。
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巴黎盛开的樱花
500错误果然不是闹着玩的,尤其是这个nginx的文章,我等了半天都没打开,真是浪费时间。
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迷路的男人
哎,500 Internal Server Error又来了,这次是因为nginx配置出了问题吗?希望作者能快点解决。
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歆久
500 Internal Server Error,这可是我第一次遇到。不过,我还是想学习一下nginx,看看能不能解决这个问题。
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孤败
每次看到500错误,我都觉得自己的技术水平不够。这篇nginx的文章我可是期待已久了。
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↘▂_倥絔
500 Internal Server Error,看来nginx的问题还是不少啊。希望作者能分享一些解决方法。
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孤街浪途
我遇到了500 Internal Server Error,这篇文章我看了好几次都打不开,真是急死人了。
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清羽墨安
500 Internal Server Error,这个错误真是让人抓狂。不过,我还是会继续尝试解决这个问题的。
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还未走i
500 Internal Server Error,看来nginx的问题还是个难题。我希望能从这篇文章中学到一些东西。
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青衫故人
遇到500 Internal Server Error,真是让人沮丧。不过,我还是会耐心等待这篇文章的更新。
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心脏偷懒
500 Internal Server Error,我猜是服务器的问题吧。不过,这篇文章我还是很期待的。
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走过海棠暮
这500 Internal Server Error真是让人头疼,不过我还是要感谢作者分享nginx的相关知识。
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陌離
500错误遇到了不少,尤其是nginx的文章。希望作者能尽快修复这个问题。
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枫无痕
500 Internal Server Error,这个错误让我对nginx产生了更多的好奇。希望作者能解答我的疑惑。
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拥抱
500 Internal Server Error,我遇到这个错误的时候真的很崩溃。不过,我还是会继续探索nginx的。
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摩天轮的依恋
500错误遇到了,不过我对nginx还是充满了兴趣。希望作者能尽快修复这个问题。
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敬情
500 Internal Server Error,这个错误让我对nginx有了更深的认识。我会耐心等待文章更新的。
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不要冷战i
500错误遇到了,不过我还是会继续学习nginx的知识。希望作者能分享更多实用技巧。
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墨城烟柳
500 Internal Server Error,这个错误让我意识到自己还有很多要学。希望作者能持续更新相关内容。
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